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博物館のアクションを通じて、アジアの人権の認識と尊敬を促進する
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最新 ニュース

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2022-09-23

作者紹介:マイケル‧ベルトラン(Michael Beltran) マイケル‧ベルトラン(Michael Beltran)はこれまで六年間記者を勤め、自分の一生を政治運動にかけている。記者という仕事で自国の様々なマイナーコミュニティに関して報道しているが、そのテーマには、人権問題や狭められた民主的空間、中国及びその他の超大国の干渉、強制される移動や引っ越し、身寄りがなく路頭に迷う人々の様子などが含まれる。 フィリピンでは都市封鎖が徐々に解放に進んでいるが、全土を見渡すと、コロナウイルスの感染が拡大するうちに受けた集団的トラウマから、依然として回復していない。フィリピン人が最も心配しているのはウイルスでなく、ワクチンの確保或いは将来でもない。 フィリピンには様々な市民団体があり、それぞれ違う方法で理念を実現している。これと同様にNGO、市民グループ、さまざまな職業及び文化団体は、国に重要な貢献をするだけでなく、社会の底辺にいる人々の面倒も見ている。 感染防止対策として都市封鎖が行われた時期に、市民団体が立ち上がり、支援が及ばない人々を助けた。期間中、安全な食べ物を確保することは終始切羽詰まった問題であり、低所得者が食料を獲得し貯蔵できるよう支援することは、多くの公益団体が解決しなければならない問題であった。 市民団体と様々な基金会は、全国各地、特に食料が安全に確保できないスラム地域を重点的にして、コミュニティ菜園と厨房を起ちあげた。屋上には回収したプラスチック容器で作った鉢植えをぶら下げて作物を植え、地域で協力して収穫し、調理し、貧しい人々に供給した。 もう一つ社会に巻き起こったのが助け合いである、コミュニティの食品ストッカーとも呼ばれた。この地方の社会運動者であり芸術家のパトシア‧ノン(Patricia Non)の当初の理念は、とても素朴なものだった。公共の場所のテーブルか棚の一つを選んで上に食べ物を沢山乗せ、「必要なだけお取りください。できるだけ提供します」と書いたのだ。一斉に全国のコミュニティの助け合い運動が燃え上がった。 これらの計画は、その時の緊急なニーズを解決したが、それ以外に、政府の支援はコロナ禍では効率が低いこと、施策の内容も適切でないことが露呈することとなった。当然のことだが、政府はこれらの行動を「テロリスト」と見なして圧力をかけ、それはコロナ禍の政治で繰り返された。 2018年の始め、ロドリゴ‧ドゥテルテ大統領政府が政治の相手に宣戦したことで、政府の眼中には、共産主義者或いはテロリスト(彼らはこの二つの言葉を交替に使う)だから政権を脅かすのだという見方しか存在しなくなった。更に重要なのは、このレッテルを貼られたら何が起こるかということだ。政府を批判する者の名前は赤く塗られる。即ち彼ら社会運動家と反政府分子は共産主義者かテロリストか或いはそのシンパだというレッテルが貼られる。そのレッテルは、テロリストの何某だから取り除いてよしと決められたことを意味する。 具体的に言うと、ドゥテルテ大統領は「地方共産党主義者との武力衝突を終結させる国家任務小隊」(National Task Force to End the Local Communist Armed Conflict)、略称 NTF-ELCACを設立した。その背景には、フィリピン共産党(the Communist Party of the Philippines,略称CPP) と新人民軍(the New People’s Army,略称NPA)のゲリラ部隊が発動してもう50年以上も続くフィリピン紛争がある。長年にわたり、彼らがフィリピン政府の最も頑強な反対者であるが、この政権は、批判する市民をも反乱分子と見なし、同様の審査を行う。この政権の極端な手段には、政府へのいかなる反対意見もすべては若者を引き入れて武装革命に参加させようとする共産党の宣伝だと見なす姿勢がうかがえる。 武装衝突は政府が答えていない無数の問題を明らかにした。なぜこれほど大勢の人が武装蜂起に立ち上がったのか、なぜ彼らの武装蜂起はこんなに長く続いているのだろうか。和平協議への道は敷かれて久しいが、ドゥテルテは特別な対応を選択した。すべての政敵をまとめて妖怪のように扱うことで、徐々に暴力的な対策を合理化させていったのだ。 この共産党に対する赤狩りの行動は、冷戦時代のマッカーシズムによる反共活動を思い出させるが、ドゥテルテ大統領の悪名を高めた血まみれの麻薬戦争と同時進行していたのだ。ドゥテルテ大統領は就任直後に「オープラン・トカン」を制定したが、これは法施行機関主導の麻薬取り締まり方法だった。麻薬中毒者と麻薬販売者のレッテルを貼られた者に、自動的に消される命令が下されていたことは麻薬戦争と非常によく似ていて、反政府活動家も同様な運命に遭遇していた。 2020年感染拡大ピーク時は、社会運動家の最も危険な時でもあった。家にいることは一斉射撃されることを意味する。有名なリーダーが家で即刻残忍な殺され方をするにつれ、赤く色付けされた社会運動者が殺害される事件も、明らかに増えた。 ジョリー・ポルギア(Jory Porquia)とランドール・エチャニス(Randall Echanis)、ザラ・アルバレス(Zara Alvarez)、カリート・バディオン(Carlito Badion)らは、暴力化した国家による受難者として有名だ。被害に遭う前に、彼らは皆「共産主義者でテロリストである」と見なされた。軍の宣伝下でこの言葉が知られるようになると、共産党であれば絶対にテロリストであるという観念が固められた。フィリピンでは如何なる形態の信念も違法ではないが、但し武装部隊に対して言えば、左寄りの人は疑いなく共産党であり、殆どがテロリストでもある。従ってテロリストは消滅すべきだとなる。 赤に塗られたことで地獄に葬られるというやり方は、国連の人権委員会も驚いた。社会運動者が赤に塗られるのみにならず、様々な市民社会のメンバーもテロリストと見なされ、従議員、教会のメンバー、記者、国連に行く特別報告員でさえ、そして単純に慈善仕事をする著名人まで。 当局を批判すれば絶対にリストに入れられてしまう!フィリピン政府は感染防止のための最も大きな寄付と借り入れを握っているが、救済金には微々たる金額しか当てていない。多くは軍や警察の経費に流れ、国内の配属先が増え、些細な違法の偏差的な取締りが行われる。つまりマスクを付けていない人、夜間の外出者などは、自分の家のドアを踏み出しただけで判決を受け、牢屋に放り込まれるほどのひどい状況だった。 よく聞くのは、ウイルスよりも怖いものがあると言う話だ。スラム地区の住民の場合、仕事が無くなって生計が立たなくなることを最も恐れている。そうなると飢えてしまうからだ。2020年4月にこの問題が浮上し、マニラという大都会のスラム地区に住む数百人が、援助もなく食物が不足する現状に対して抗議したとき、ドゥテルテ大統領とその仲間たちは富と特権を見せびらかしていた。抗議者を迎えたのは警察の棒と手錠のみである。この国で最も飢えている人21名が牢屋に放り込まれた。全国から強烈な抗議が起こったことでやっと彼らの保釈が認められた。 2020年7月、政府は更に目標を殲滅する過程を簡略化し、様々な争議について「反テロリスト法案」を可決した、これはフィリピンの七、八十年代、独裁者による戒厳令時代以来、最も酷く人民を迫害する国家政策である。 「反テロリスト法案」は、ドゥテルテ大統領とその仲間たちが好きな話題を凝縮した結晶だ。法律で国民の自由を憚ることなく制限することが許されている。今や単に他人を「テロリスト」だと疑うだけで、逮捕状がない状況でも逮捕できる。テロリストの定義は、すべての人を含んでいる。 前述の状況は、殆どが2020年に起こったことだ。不幸なのは、ウイルスのように、これらの事件が今までフィリピンの発展の方向性を左右してきたことだ。この国の近代史上、最も酷い人権侵害が引き起こされると同時に、一番弱い立場にある地域の人々の経済的権利も剥奪され続けている。フィリピン社会の醜さには、単に惨烈な人権記録だけでなく、都市封鎖の期間中に明らかになった社会の不平等も含まれている。過去の危機の後遺症が消えても、変化もないことは、2022年5月に終わったばかりの大選挙から、より強烈に感じられた。 全面的人権侵害は、抗議、集会、ソーシャルメディア戦などの形で、前例のない抵抗を引き起こしている。 コミュニティが主導して努力したおかげで、市民社会が蘇って民主主義と人権のための小さなスペースを確保し、フィリピンは厳しい罰と厳格な法律の執行を行う戒厳時期に完全に後戻りすることなく、その成果は広範囲に及んでいる。 私達が希望を抱くのは、理由があるからだ。コミュニティ菜園と厨房、そして食品ストッカーは、抵抗への一面に過ぎない。抵抗には様々な形があり、異議を唱える暗流は、より多くの人がより高い頻度で街頭に出ることで持続的に湧き上がっている。情勢が良くなる前には悪化するが、多くのフィリピン市民、組織、機構はすでに準備を整えている。

2022-09-23

朱剛勇氏の紹介: 貧困層をテーマとする工作者の一人。「人生百味」、「窮学盟」の共同創立者であり、『街頭生存指南』、『反造再起:都市共存ING』の共同執筆者である。 人生百味: 人生百味(社団法人人生百味文化建構協会)はホームレス、都市の貧困層というテーマを耕すNGOである。2014年から継続して人々に直接奉仕計画を唱え、またコミュニティや居住問題、精神の疾病、労働や性別の問題に向き合う団体と提携し協力して、人々とこれらのテーマの間の道案内人になるように努めている。 繁栄する都会の中に貧しい人の展覧会を開催 「もし我々が過去の歴史を回顧したいと願えば、すぐにも発見することができる。今日この大台北の目を奪うような輝きは、この百年間、南北から夢を追う人、何ももたない人、低所得者層の労働者、移民、原住民と貧しい人らが心血を注ぎ、労働力として貢献してきた結果である。彼らは高い山から、沖にある島の片隅から、東南アジアの各国から駆けつけ、手を携えて一緒に一つの偉大な都市の新しい顔を創ったのである。 別の角度から言うと、今日繁栄する台北は、単に成功者や金持ち達だけの台北ではなく、挫折した人、貧しい人達の台北でも在るべきだ」一一孫大川著『貧しい人の台北』より 今世紀の世界は、貧困を重要かつ緊急解決な問題としているが、その議題を検討するときにはいつも貧しい者の声が欠けている。人間は、心の中に深く刻まれた体験の主体である。但し、社会に貧困に対してネガティブな固定観念が依然として充満していては、多くの経験者は身を隠すか自己の経験を否定することを選んで、無言のグループとなる。 2017年から台北では、ホームレス、都市に住む原住民、立場の弱い家庭、少年のケア、精神病経験者などに寄り添う社会周辺体の各組織が発起し、『貧しい人の台北』(以下『貧北』と略す)を共同出版した。年度の提議と行動を通して人々を貧困者の生活に招き入れ、都市の貧困問題を理解してもらっている。

2022-07-20

今回年会の主旨は、批判方式による人権博物館と関連する組織の相対的自主性及び行動空間を討論する。多くの国の博物館にとって、これが当面一つ切実な課題である。博物館、政府及びほか権力者との間にはどういうパターンの関係が存在しているか、またはこの様な付随関係が博物館のキャラクター及び博物館に対し、容認する敏感的な或いは争議的なテーマの形をいかに形成か。 世界の人権は自分の責任であるゆえに、各角度から社会、文化、政治の共存/テーマを排除する博物館を扱い、本年会は焦点をさらに絞り、当前の情勢を描き出す。ことし年会は博物館の空間、社会全体の共存するテーマについて、優れる扱い或いは交渉の凡例の投稿を特に歓迎する。  人権博物館にすれば、どの方法が共存を促す或いはどの策略がとくに要点を的中し確証されたか。今までFIRHM年会の主旨は博物館との交流の実務経験の分け合う、能力を養う、開発方法及びコミュニティが基礎との関係マネジメントに分けれる。 主催機構 2022年国際人権博物館連盟年会はノルウェー民主及び人権博物館ネットワーク(Demokratine rrverket)が主催する。主催の博物館はノーベル平和センター、ユダヤ大屠殺及び少数民族ノルウェー研究センターとアイツオ1814憲法博物館。

人権の諸論
2022-09-23

作者紹介:エルパン・ファリアディ(Erpan Faryadi) エルパン・ファリアディ(Erpan Faryadi)は、リンク・エーアール・ボルネオ(Link-AR Borneo)という団体のプロジェクトマネージャーである。正式名称を「ボルネオ州のアドボカシーと研究のグループ(Advocacy and Research Circle of Borneo)」というこの団体は、西カリマンダン地区(West Kalimantan)の民主と人権、自然資源、気候変動そして人民の権利を擁護するために活動し、教育と研究に努めている。 リンク・エーアール・ボルネオ リンク・エーアール・ボルネオ(Link-AR Borneo)は、2009年4月2日に成立したNGOで、正式名称は「ボルネオ州のアドボカシーと研究    のグループ(Advocacy and Research Circle of Borneo)」である。採掘産業による土地、森林及びそこに含まれる天然資源をめぐる大きな問題に対処するためのアドボカシーを行う目的で設立された。世界の巨大産業に供給するために原材料の必要性を優先するという、政治経済的利益によって引き起こされた問題だ。これらの状況は、豊富な天然資源を有するボルネオの大地と密接に関係している。上記の状況を鑑み、リンク・エーアール・ボルネオは、証拠に基づくアドボカシーを開始し、その方向性は、地域社会の利益と持続可能な生態学的正義と明らかに一致している。その後も積極的に、人権の支持と擁護、公正で持続可能な森林と土地管理の改革、そして関連する地域社会の独立を奨励することに取り組んできた。 今こそ、インドネシア政府のコロナ対策と措置、人権の尊重を含めそれらが人々にどのような影響を与えているかを評価する絶好の機会である。 2020年の1月から3月にかけて、インドネシア政府の官吏は新型コロナウイルス感染症の拡大に対して真剣に対応せず、ウイルスを過小評価したばかりか、ウイルスの存在をも信じていなかった。同じ頃、インドネシア副大統領は宗教指導者の祈りがあれば、コロナウイルスはインドネシアに降りかかることはないと述べた。ジョコ・ウィドド大統領でさえ「インドネシア国民は、薬草を飲むことでウイルスを封じ込めることができるだろう」と発表し、国民の誤解を招いた。インドネシア政府は、このように非科学的にコロナウイルスに対処していたのだ。(2020年3月16日のインドネシアCNNニュース“Media Asing Soroti Jokowi Minum Jamu Untuk Tangkal Corona” 参照) インドネシア政府の防疫措置 2020年3月、世界保健機構(WHO)が新型コロナウイルス感染症の世界的大流行を「パンデミック」と宣言した時に、インドネシア政府は本来ならば、医療の専門家、特に感染症の専門家や疫病学者に意見を求め、体系的な防疫措置を講じて国内の感染拡大を止めるべきだった。しかしながら、健康の問題であるにもかかわらず、政府が医療専門家の意見に耳を傾けることはほとんどなく、時には専門家の意見を過小評価したので、政府と医療専門家の意見が対立することもあった。2020年4月以降、インドネシア政府はインドネシア国軍(Indonesian National Armed Forces, 略称TNI)と警察の監視下で国民に外出禁止令を公布し[1]、宗教活動と行動の自由を制限して集会やデモを禁止した。これらは、人権の、特に市民的及び政治的権利において、潜在的侵害を招くものである。 WHOのパンデミック宣言以後、インドネシア政府は確かに政策として措置を講じたが、それを国内全土に行き渡らせていなかった。公共衛生の専門家は、ジョコ・ウィドド大統領の防疫措置は速度が遅すぎて、国民を安心させることができないと考えていた。(2020年3月16日インドネシアBBC ニュース“Virus corona: Jokowi umumkan langkah pengendalian Covid-19、 tapi tanpa komando .”参照) インドネシア政府は、また毎月防疫の宣伝文句と政策を発表したがる。感染拡大防止にはあまり役立たないが、この大流行に対し、体系的な方針を立てられないインドネシア政府の狼狽ぶりを露呈していると言える。 2020年12月ジュリアリ社会相に贈収賄の疑いがかけられた。新型コロナウイルス対策として実施された貧困層への生活必需品支給に関するものだった[2]。国民がコロナ禍で苦しくもがいている時に、役人はみっともないスキャンダルを起こしていたのだ。 コロナの感染者数と死亡者数が増えるにつれ、インドネシア政府の防疫は困難を極めた。政府は人民の健康に生きる権利(基本的人権の一つ)を保障しなければならない。例えばそれには、防疫最前線にいる医療人員の十分な装備の確保も含まれる。だがコロナウイルスの深刻な病状に対し、インドネシア政府はほとんど何の助けの手も差し伸べていないと言える。感染者数と死亡者数は、2021年6月中旬から未だに収まっていない。 コロナ禍 インドネシア国民への影響 政府が感染ルートを断ち切るために、2020年4月に「大規模な社会的距離制限措施」(PSBB)の実施を発表したが、この措置は、WHOの掲げた2つの目標である感染拡大防止と死亡者数抑制を達成できず、完全に失敗した。政府は国民の健康と経済の発展に優柔不断であった為に、2021年7月、コロナはインドネシアでさらに蔓延した。 2021年7月3日から20日まで、インドネシア政府は感染拡大防止と死亡者数抑制のため、ジャワ島とバリ島に防疫緊急措置(PPKM)を実施した。それ以外の小規模行政区域には、「緊急小規模社会活動制限の措置」 (PPKM Mikro Darurat)、を実施した。しかしながら、これの措置は感染防止には効果がなく、感染者数と死亡者数は増え続けている。 インドネシアのコロナ禍における市民社会団体の役割 インドネシアの市民社会団体(C S O)は、インドネシアの改革開放時代やポスト権威主義時代から活動している組織だ。その団体の多くは、人権や気候変動、健康、法の改正、食糧主権、地権と土地改革、農民と労働者などの問題に積極的に役割を果たしてきた。また、例えば医師、弁護士、農業専門家などを含む多くの団体と個人をその活動に帯同しているので、団体の信頼性は高く、専門分野での経験が豊富である。実は、彼らこそポスト権威主義時代(1998年後)の民主主義の発展に貢献してきた人々である。  彼らは常にインドネシア政府の防疫措置に注目している。例えばLaporCovid-19市民連合の場合は、コロナが猛威を振るい始め、政府が公式にその存在を認めた2020年3月の初めに、コロナ禍での人権と公共衛生に関心を持つ人々によって結成された。 彼らは市民が通報できるプラットフォームを構築し、これまで政府が把握できず、彼らの知り得た情報を人々と分かち合っている。市民が参加してクラウドソーシングを使って感染者数を記録し、近隣地区にコロナ関連の情報を伝えることで、国内の感染者数を記録するネットワークのかけ橋渡しとなっている。そのネットワークによって、政府と国民は国内の感染の分布と規模などの情報を得ることができ、政府も彼らのプラットフォームに集まったデータを使って防疫措置と対応を計画することができる。 LaporCovid-19は以下の市民団体で構成されている。インドネシア法律扶助協会財団(YLBHI)、テンポマガジン(インドネシアの雑誌)、バンドのエフェク・ルマ・カチャ(Efek Rumah Kaca)、国際透明性機構インドネシア(Transparency International Indonesia)、ロカタル(Lokataru)、人権基金会(Hakasasi.id)、U-Inspireインドネシア(国際的な青少年ネットワーク)、STH Jentera(法学校)、NarasiTV(メディア)、ルジャック都市研究センター(Rujak Center for Urban Studies)、そしてインドネシア汚職監視団I C W(Indonesia Corruption Watch)。インドネシア法律扶助協会財団(YLBHI)は人権擁護団体で、1970年代からインドネシア政府の人権義務の執行を監督し続けている。テンポマガジンはテンポグループに所属し、人権、環境、汚職などの問題に関心を注いでいる。 LaporCovid-19のうちインドネシア汚職監視団I C W、インドネシア法律扶助協会財団、経済社会教育研究所(LP3ES)、ロカタルで構成された市民社会団体は、インドネシア政府の防疫措置が混乱していることを強調した。2020年3月初めの爆発的感染拡大以来、インドネシア政府はパンデミック対策に失敗し、成果が上がっていないとこの団体は見ている。 LaporCovid-19は次のように発表している。政府の防疫措置は問題があるので、死亡者数の上昇を防ぐことができなかった。もし政府が感染拡大のピーク時に予防と防疫措置を講じて断固として実施していれば、死亡率は最初からこれほど高くはならなかった可能性がある。(参照レポート:Kasus Meninggal Melonjak & RS Kolaps, Negara Gagal Tangani COVID?",Tirto.id、2021年7月6日,https://tirto.id/ght5)2020年にインドネシア政府が695.2兆ルピア(約台湾$1.4兆元)を防疫に投入しても、最終的に成果はかんばしくなかった。(コンパスニュース参照、2020年12月20日、“Kebijakan Pemerintah Menangani Covid-19 Sepanjang Semester II 2020.”)

2022-09-23

作者紹介:詹話字、駱麗真 詹話字・国立台湾芸術大学・芸術管理と文化政策研究所博士。社団法人台湾視覚芸術協会の秘書長、台北デジタル芸術センター執行長を経て、現在は台北当代芸術館研究部門の副代表を務めている。 駱麗真・専門は現代芸術、新しいメディア・アートの研究と創作、芸術創作と評論、芸術教育、ディジタルマーケティングの傾向の研究。今は世新大学・パブリックリレーションズと広告学科からの出向で、台北当代芸術館の館長としての仕事に専念している。 博物館紹介:台北当代芸術館 台北当代芸術館は2001年に設立され、台湾で初めて現代アートをテーマとした芸術作品が置かれている。多様な展示とイベントを通して、視覚芸術と社会との関わりをより深く探索する。 今の時代に現代アートを討論する場合、社会から離れて独立することはできない。創作という芸術活動が伝える考え方とそのメッセージから感じ取ったものを通して、大衆は自由に対話し交流することができるのだ。芸術博物館は、社会に参与して実践するというパワーを作りだし、来場者に展示を参観する中で感動し、反省してほしいと願っている。それらの思考を日常生活の中に持ち帰ることで、将来は行動と変化を起こすことができるようになる。これが現代アートの無視できない潜在的なエネルギーである。 台北当代芸術館は現代社会について議論する場所を積極的に創る このような信念で、台北当代芸術館(以下当代館と略す)は近年の展示プランにおいて、意識的に多岐にわたる人権議題を重視している。2017年の裁判所の憲法解釈では、現行の「民法」は同性婚の自由及平等の権利を保障できないことを違憲とみなし、立法機関で二年以内に関係法律の修正或いは専用法律を制定することを要求し、同性婚の権利を保障した。これにより台湾は、アジアで初めて同性婚を合法化した国となった。同時に、当代館は胡朝聖氏が企画する独立展示会「光合成‐アジアのL G B Tと現代芸術」を開催した。これが台湾の公の美術館では初めてL G B Tをテーマにした大型展示会となったのだが、その重要性は言うまでもない。当代館の前の広場に置かれたアーティスト、チーウェイ・チョアン氏による屋外インスタレーション「暗闇の中の虹」は、文字を刻むことを通して自分の心の隅に隠している秘密、無声の叫びや不正に対する声を人々に書き出してもらい、数多くの祝福と称賛とを共に展示し、内心の想いを披露している。巨大な棚は皆の心の声を映し出し、虹のようにエネルギーが輝いている。この展示会は更にタイ・バンコクとホンコンなど各地を巡回し、社会問題を現代アートで討論するという行動力を発揮し続けた。

2022-05-23

作者紹介:アンディ・アハディアン (Andi Achdian) アンディ・アハディアン (Andi Achdian)は、インドネシア国立大学社会と政治科学学院の社会学科助教で、またオマー・ムニール財団の執行長である。 ムニール人権博物館について ムニール人権博物館は、オマー・ムニール財団によって2013年に東ジャワ省バトゥ市に建てられた。ここが人権擁護活動家ムニール氏の生まれ育った場所であることにちなみ、当初は「オマー・ムニール(ムニールの家)」と呼ばれていた。この博物館の設立によってインドネシアの庶民、特に青年に人権教育が促進され、平和を愛し、人権を尊重し、寛容と平等を原則とした人材の育成が進められることになった。 前書き 1998年5月スハルト大統領の掲げた新秩序政権が崩壊し、彼は30年以上掌握した地位を退いた。副大統領のハビビ氏が後を継ぎ、インドネシアの政局を民主的な方向に発展するように力強く促していた。新秩序の解体とともにインドネシアでは、雨季の後の竹の子のように芽生えた多数の政党による新しい時代が、近代における民主化移行の基礎となっていった。しかし、旧政権の基盤はいまだに消えておらず、現在の政治においても重く存在し続けている。 その内の一つに、現代インドネシア史では軍の成果を強調していることが挙げられる。特に陸軍は、1965年にインドネシアを共産党の脅威から解放する重要な勢力であった。1970年まで政権を全面的に握っていた様子は、その後このような歴史的記録として広く伝わり、共産主義運動の鎮圧の成功に留まらず、オランダに対抗して独立を勝ち取った主な功労者は軍であることを強調している。  独立運動家スカルノ氏、ハッタ氏、スジャリル氏らが果たした役割はだんだんと薄くなり、独立戦争中に活躍した軍の英雄と実績がそれに代わった。歴史家キャサリン・マクレゴーは、二十世紀の近代インドネシア史の研究において、それを「制服を着た人々の歴史」と的確に表現した。新秩序の時代に、政府が如何に軍の役割を宣伝していたかがわかる。政権の統治者は進歩的で解放的な政治を進めただけでなく、博物館をも利用して権威主義的統治者の反動的な誤った歴史的意識を粉飾しているのだ。裏での操作はすべて、学者であり軍事歴史家のヌグロホ・ノトスサント氏によるもので、彼は後の新秩序時代には教育部長となり、率先してインドネシア各都市に博物館と記念碑を建設し、人々に軍の果たした重要な役割を忘れないようにと指導し、この歴史的物語を支えた。  忘れることへの抵抗 新秩序政権の下で、博物館は単に「芸術、文化、歴史或いは科学的価値のある文物」(オックスフォード辞書)を収蔵する場所という従来の定義を超えて、政権の歴史的な役割を正当化する権力の道具にもなった。1998年の改革から間もなく、真相を解明すべく努力し始めた人がいる。2000年の初めにインドネシア独立史の研究者が提唱した説が論争の焦点になった。アスビ.ワマン.アダム氏は、「歴史の修正」を提案した主要人物の一人だった(Adam,2004)。軍隊の役割を強調する際に、インドネシア各地で共産党員と共産党員と見做された数十万の人々が殺害されたことが、1965年の公式に記録された。しかしながら、この新しい波は、学術界の論述という範囲に限られている。新秩序政府の公式見解は、依然として小学生と中学生の歴史の教科書と映画、特に今迄保存されてきた新秩序政府建設の博物館と記念碑を主流としている。 このほかにも人権活動家と民主運動家が、1988年インドネシアで経済と政治の危機が起生じた時に何が起こったかを人々に忘れさせないように取り組んでいる。 2014年12月10日、トリサクティ大学の社会運動家と学者は国際人権デーの記念活動に合わせて、1998年5月12日の事件の記念碑の除幕式を行った。この記念碑の色は黒で、セラミック製、高さは3メートルある。学園内の学生抗争期間中に安全維持部隊に銃殺された4名の学生を追悼するものだ。 その時、女性に対する暴力に反対する全国委員会(Komnas Perempuan)が碑文を作成し、暴力を受けた中国系女性の事件を伝えた。ボランティア達は中国系の女性への性暴力が存在することを各メディアに訴え、改革の初期には論争が起こった。政府は連合調査チーム(TPGF)を組織し、この問題の関する事実を調査したが、チームはそのような大きな事件があったという「証拠」は見当たらないと、事件があったことを正式に否認した。政府の解答に対して、華僑の若いボランティアで事件の被害者でもあるイタ.マルタディナタさんは、アメリカ国会に証言する計画を立てたが、アメリカへ出発する前に殺害されたことが分かった。中国系女性への性暴力事件は忘れられていったが、1998年5月の碑文が証となって、人々に思い出させてくれる。 またその頃、インドネシアで最も西にあるナングロ・アチェ・ダルサラーム州では、幾つかのNGOが驚異的な一歩を踏み出し、2011年にアチェ人権博物館を創立した。博物館の規模は小さいが、これらの組織はティカルバンダン ・コミュニティ(Tikar Pandan Community)のオフィスの庭に掲示板を立てた。内容は、シンパンKK A(Simpang KKA)抗争の中で住民が射殺され、衝突の中で失踪した人々と、兵隊が拷問を加えた場所「ルモグドン」について伝えるものだ。ここには、アチェの解放運動に参加していると疑われた人々が拘束されていた。シンプルな博物館だが、その使命は広く重大である、その目標にはこうある。 暗黒な処は、必ず小さな光が印となって示してくれると信じている。だから私たちは記憶の聖域を築いた。私達、生きて死んだアチェの男女は、レイプされ、虐殺され、烤問され、抹殺され、生死を超えて声を上げる。同じ過ちを繰り返すな!Aceh bek le lagee njan!アチェの過ちを繰り返すな! 一言で言うと、インドネシアの政治改革は、政府とは別に新しく歴史の事実を記すため、人権活動家及び民主活動家を支持する扉を開いたのだ。彼らは「忘れることへの抵抗」というスローガンを打ち出して、過去の人権侵害の加害者が依然として自由の身であるという、インドネシアの有罪不問文化に反応している。博物館と記念碑が発動した「忘れてはならない」という抵抗運動を通し、最終的にはこれらの犯罪に対する政府の怠慢に率先して対抗する一つの行動となった。 オマー・ムニール(ムニールの家) 博物館がどうすれば社会運動のホームグランドとなりうるかについては、東ジャワ省マランバトゥ市にあるムニール人権博物館が証明している。私自身、オマー・ムニール財団のメンバーとして、見解を簡略的に述べよう。 まずインドネシアの重大な人権侵害事件からだが、インドネシアの有名な人権擁護活動家ムニール・ビン・タリブ氏(Munir Said Talib,1965-2004)は、2004年9月7日にオランダへ留学する途中で殺害された。インドネシア民主化の扉を開ける改革を行なったほか、ムニール氏の死は多くのインドネシア人への警鐘を鳴らしたのである。人々に、旧政権の負の遺産は、依然として人々の生活を大きく左右すると告げている。彼の事件の裁判は、ただ実行犯が法律で処罰を受けただけであり、肝心の事件に関わったと見られる軍の高級幹部と情報官僚は、依然として法の外で悠々としている。ムニールの事件で、有罪不問の現象が再び主流となった。  2013年、私がインドネシア警察博物館を創立したばかりの頃に、ムニ­ール氏の未亡人スシワティ(Sucieati)さんが私に連絡してきた。夫とインドネシアの人権問題に奮闘している人のために、博物館を作りたいというのだ。私はムニール氏をよく知っている。インドネシア法務研究所では、彼のもとで働いていた。スシワティさんの提案は、1980年代の国立アメリカ・インディアン博物館(National Museum of the American Indian)の創立や民権運動(Kyle Message,2013 年)が示しているように、博物館が「活動参加」の拠点となることの重要性を強調していて、素晴らしい考えだと私は思った。  問題は資金をどのように捻出するかだ。博物館建設は費用がかかる上、建築士、土木エンジニアと歴史家の参加を必要とする難しい挑戦である。これは、スシワティさんが東ジャワ省バトゥ市にある自分とムニール氏の家を、博物館の用地として提供することで解決した。庭と家屋を含めて大きさが約400平方メートル未満と小さいけれど、この建物には重要な歴史価値があり、または計画を促進する良い礎となる。 2013年の中頃までにより多くの支持を得ようと、博物館を建ててムニール氏とインドネシアの人権擁護活動家奮闘の歴史を語り伝えるというスシワティさんの考えは、広く反響を呼んだ。若い社会運動家や芸術家、メディアの有名人らが続々と共鳴してくれた。その中にはムニール氏に同情する政治家と政府の役人も含まれていた。例えば、のち宗教部長になったルクマン・ハキム・シャイフディン氏とネットメディアの経営者ダーラン・イスカン氏だ。彼は後に国営企業部の部長となった。この博物館の発展は、最終的にはインドネシアの民主運動のネットワークを拡大した。 この博物館を建設する過程で、ついにインドネシアで人権を訴える新しい道が開かれた。それまで人権と民主化は遠いものだと考えていた人々が、この共同計画に投入して時間と力、資金を提供することで、突然それを身近に感じたのだ。これは社会学者シドニー.タロウ氏の考え(2011)を反映するような、市民社会が共同行動を通して、以前は分離されていた各部分が再び集まるモジュール式集団行動である。この年の末には博物館が完成し、また文字通りムニールの家、オマー・ムニールとして正式に一般公開された。最初はただの夢だったが、やっと現実となった。その後博物館の管理運営のために、博物館の発起人で構成されるオマー・ムニール財団が設立された。 このプロジェクトは、数十年続いてきた政府の保守的な歴史に、正面から挑戦した。博物館は確立された歴史と相反することを体験させてくれるのだ。参観者が博物館に着いた時、彼らを迎えるのは、博物館の建設期間中に彫像家から寄贈されたムニール氏の胸像だ。参観者は次に、新秩序が作られて間もなく設立されたYPHAM (人権援助ファウンデーション)と、インドネシア法律サポート財団 (YLBHI)の一連の流れを見ることができる。YPHAMは積極的に共産主義政治犯とその正義のための運動を保護し、推進する組織で、この事実は政府の軍隊が共産主義運動の粉砕に成功したという公式の姿に真っ向から異議を唱えた。 ここではまた、女性労働者マルシナさんについて知ることができる。彼女は、ストライキを主導したとして軍の尋問を受けた過程で亡くなった。オマー・ムニールに展示されているマルシナさんの話は、インドネシアの発展が労働者の血と汗で成り立っていることを、参観者に思い起こさせる。他にもインドネシアの重要な人権侵害事件、例えばパプア州と東ティモール(現在は独立国家)のように、強制失踪と政治的殺害にもスポットを当てている。そしてここに、ムニール氏の個人的な生涯と彼の人権擁護活動家としての履歴、彼に対する謀殺事件についての展示があるのは言うまでもない。  2013年12月8日正式に開館して以来、オマー・ムニールはさまざまな背景と年齢層の参観者を受け入れてきたが、やはり大学生と若い学生が主である。彼らは学校と大学教育における人権認識の一環だと考えている。5年後、インドネシア人民の生活の中に、重要で普遍的な世界人権規範を浸透させようとして人権団体が活動する場合、ここは効果的な媒体となっているだろう。その時そう省みるのは、とても興味深いことに違いない。 ムニール人権博物館 実際にはオマー・ムニールのような小規模博物館で、保守的な歴史物語を塗り替えるには限界があるのは、認めざるを得ない。2018年、オマー・ムニール管理委員会は、建築、インフラ、プロジェクト及びシステム維持等の面で、政府と提携して発展していくことの重要性を考え始めた。この一歩はとても成功し、政府から博物館の建設援助の承諾を獲得した。経費は東ジャワ省政府が提供し、土地はバトゥ市が提供するというものだ。 さらに、管理委員会は、市民の他の団体とも幅広い協力関係を作り上げた。そこでは三つの大きな活動があった。まずは、人権博物館の重要性について人々の意識を高めるため、インドネシア建築士協会(Indonesian Architects Association,AAI)と協力して、博物館のデザイン・コンペティションを開催した。建築士のアイハマイト・デニ・タルディアナ氏(またApepと称す)の設計は、魅力的で群を抜いており、環境保護とも融和していた。第二に、ジャカルタ芸術学院(Jakarta Arts Institute)と協力して、博物館に展示する作品のコンテストを開催した。第三に、環境保護活動家やジャーナリスト、先住民、障害者、女性活動家との協議会を組織し、博物館が可能な展示とテーマについて検討した。この会議での要点は、のちに博物館の学芸員の育成に重要な課題を生み出した。 ここでは、一階に子供のための特別な設計を施している。子供はここで公共生活における包容と自由と平等などの重要な価値観を認知することができる。二階には、インドネシアの人権史の展示がある。インドネシアの市民団体が提出した重要な人権侵害事件、環境保護、先住民、女性及び報道の自由などの問題を取り上げている。最上階には、ムニール氏についての展示がある。彼が生涯進めてきた仕事、例えば強制失踪者のための活動は最後の展示室にあり、参観者にインドネシアの人権問題を考えさせる。 政府との共同作業の過程で、特に人権問題では、展示の独立性について幾つかの疑問が生じたことは、否定できない。将来の人権博物館は、公正かつ公平に、インドネシア史上の重要な人権侵害事件に直面することが出来るだろうか。  それでも、この過程では確実にいくつかの調整と変化が行われた。まずは博物館の名前を「ムニール人権博物館」に変更したことだ。但し、これは博物館と政府の見解が合意に達したしたことを意味するものではない。これまで博物館が展示してきた人権擁護活動家の生涯という特定のテーマを超えて、より広汎的にインドネシアの人権問題をとらえたいという願いを表している。展示の独立性という点では、幸いなことに、インドネシアの政治情勢は開かれた余地をまだ保っている。 未来には最悪の状況が出現するかもしれない。しかし、今回の経験で明らかになったのは、博物館や史跡が、すでに改革期の人権活動家と民主運動の重要な活動拠点となっていることだ。これが、インドネシアの若い世代に人権の重要性を理解してもらう効果的な方法かどうか、それは、時が経てば分かることだ。