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博物館のアクションを通じて、アジアの人権の認識と尊敬を促進する
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最新 ニュース

最新ニュース
2022-05-23

テ・ウ・マウン(映画関係者・映像カメラマン) テ・ウ・マウン(Thet Oo Maung)=ステファン・マイナス(Stephen Minus)は熱心な人道主義者であり、独学の画家兼カメラマンで映像カメラマンでもある。カメラを通して、貶められたり、忘れられたり、言論を制限されたりした人々に代わって、世界に思いを訴えている。その作品で扱う内容は、内戦をはじめ地雷、障がい者、児童教育、児童ケア、女性のエンパワーメント、情報格差の解消、盗伐問題、エンクロージャー、環境問題などを含む。今はミャンマー初の人権に関する自主制作映画祭である「ワンフィルム・フォーラム」を立ち上げようと取り組んでいる。 ワンフィルム・フォーラム(One Film Forum) 自主制作映画祭ワンフィルム・フォーラムの趣旨は、映画を通してミャンマーでの人道支援を呼びかけるところにある。公正・公平を追求する人にとって、このようなイベントは、不正を暴くのに適した場であるとも言える。映画の上演により、自由、言論の自由、平和が提唱されるだけでなく、人々の人権や正義、社会運動に対する意識が高められる。2021年2月1日、軍政府はクーデターを発動し、選挙で選ばれた国民民主連盟(NLD)政府から政権を奪ったが、軍の行動に対して国民が反発し、大規模なデモが行われた。しかし軍政府の制圧によって、大勢のデモ参加者の命が失われ、女性や子供にも容赦はなかった。暴行に立ち向かうために、ワンフィルム・フォーラムは引き続き人権・自由・正義を提唱し、映画の力を持って戦う。 1961年、ミャンマー(Myanmar。旧名Burma)はイギリスから独立した。1961年8月29日、初代首相であるウー・ヌが進めた国家宗教促進法は国会で可決され、仏教が国教化された。その法律はウー・ヌが掲げた公約の一つだった。ミャンマーは独立したが、新政府に対し不満を感じる一部の民族は反乱活動を始めた。例えば、キリスト教信者の多いカレン族やビルマ共産党などが挙げられる。政府がそういう反乱者を野蛮人や仏教否定者だと考えた理由は、1961年国教化政策が出されたとき、キリスト信者の多いカチン族によるカチン独立軍(KIA)が反乱活動を展開したことにあると見られる。それ以降、政府の主要方針の一つとして、仏教以外の宗教を抑制し、共通した一つの信仰を通じて国家の結束を図ることにした。その一方で、仏教ナショナリズム的な言動を推奨し、キリスト教、ヒンドゥー教、イスラム教など少数の民族の信仰を圧迫している。 実際ミャンマーには、多種多様な宗教が千年間共存している。ところが、政府は仏教以外のこれらの宗教に関する文物を粗末に扱うだけでなく、時には遺跡をも破壊している。このような行動を学界では「ビルマ化」と呼ぶ。博物館も全て政府の統制下に置かれ、政府の方針を踏まえて他の宗教の展示品や保存が必要な収蔵品をおろそかに扱い、各館がそれぞれの手法で国教化政策を支持している。   多民族国家であるミャンマー ミャンマーは多民族国家であり、政府が公式に認めている135の民族グループは、ビルマ族、チン族、カチン族、カレン族、カヤー族、モン族、ラカイン族、シャン族など8つの主要な「国民的民族」に分類されている。ちなみに、「国民的民族」は地域による分け方であり、言語や民族系統によって分けられたわけではない。 一方、政府に承認されていない民族もたくさん存在する。例えば中国ムスリムやパンデーと呼ばれる雲南ムスリム(総人口の3%を占めている)、インド系(総人口の2%を占めている)、イギリス系やグルカ(Gurkha)族出身者である。最後の二つの民族については政府の記録に記載はないが、民間の調査によると、約52,000人のイギリス系ミャンマー人がミャンマー国内に住んでいて、国外にも約160万人がいるとのことだ。ミャンマー政府に承認されていない民族は、 ·          イギリス系 ·          中国ムスリム ·          パンデー(雲南ムスリム) ·          インド系 ·          トーンタ族(Taungtha) ·          ロヒンギャ族 ·          グルカ系・ネパール裔系 などが挙げられる。 多彩な民族やカルチャーが共存してきたミャンマーであるが、その宗教遺産や歴史的文物が政府に承認されている民族に属するものであるかないかにせよ、博物館で見ることがほとんどできないのが現状である。さらに様々な宗教の共存共栄ができることを示す証拠や遺跡は意図的に隠され、壊された。あるいは他の宗教の歴史的文物であるにもかかわらず、説明が書き換えられ、仏教のものとして展示されることがある。広く愛されていたパガンのナンパヤー寺院(Nan Phayar)はその一例である。11世紀に砂岩で築き上げられた宝塔のあるこの遺跡はヒンドゥー教の神殿であり、梵天という神様を祀っている。壁に彫られている三つ首の神像は明らかにヒンドゥー教のものだが、政府や宗教の指導者はここが仏教のお寺だと主張し、一部の歴史的文物を壊して、ミャンマーの宗教史を書き換えようとしている。

2022-05-23

ミャンマー宗教文化省所管の博物館は、国立博物館、考古学博物館、民族学博物館、記念博物館にあたる地域文化博物館に分類できる。その他の機関に属する宗教博物館や私立博物館、歴史博物館もあり、それぞれミャンマーの文化遺産を管理している。それ以外の博物館は、基本的に政府機関や民間部門が管理・運営しているが、政府の文化政策として文化遺産や民族性を守ることにより、国家の威信や信頼性の向上を目的とするものがほとんどである。 ミャンマー文化省は、「文化で国を発揚する」ことを使命とする。ミャンマーには有形・無形文化財が豊富で、それらの文化財は、主にヤンゴンのミャンマー国立博物館やパガン考古学博物館が共同で収蔵しており、ほかの地域の文化博物館や宗教文化省管轄の考古学博物館にも、いろいろな文化財が収蔵されている。 古代の宮殿や蔵経閣から時を経て、独立前に創設されたパガン考古学博物館など有名な博物館に至るまで、ミャンマーにおける博物館の発展は以下のようにまとめられる。ミャンマーが独立して4年後の1952年、宗教文化省が設立された。そしてミャンマー初の国立博物館はヤンゴンに建設され、その後数カ所で博物館が続々と建てられた。

2022-05-23

作者の紹介 :パトポーン(オル)プートン(Patporn (Aor) Phoothong)  パトポーン(オル)プートンは、平和のための博物館及びアーキビストの仕事に従事し、平和教育に力を入れている。最近ではタイ南部をテーマにした平和博物館の設置について、その可能性を研究している。同時に、1976年10月6日血の日曜日事件についての資料を収蔵する博物館計画と、南方博物館とそのデジタルアーカイブ計画の共同提唱者である。博物館とデジタルアーカイブを介して、国内での衝突を平和的な解決へと導くことを推し進めている。実際には2011年から、平和と正義のための博物館及びデジタルアーカイブ設置を推進する仕事に従事し、また第6回日本財団アジアフェローシップのワークショップで、アジアの知識人(API)と共に「平和と和解への歩み・ 日本とフィリピンの平和のための博物館ケーススタディ」に参加した。  10月6日博物館計画について 10月6日博物館計画は、2019年7月に四人からなるグループが立ち上げた。メンバーはプログレッシブ路線の出版社の編集者、映画監督兼カメラマン、建築士と研究員である。計画では、異なる文化背景を持つ人とタイの過去から現在までの政治暴力について意見を交換し、討論できる政治空間となることを博物館の主旨としている。展示会、シンポジウム及びワークショップといった活動を計画し、来場者とタイ社会とが情報及び証拠資料を通じて交流を深め合い、質問や意見を出すことに繋げて、最終的には有罪不問の文化に挑戦する。 タイは噂やゴシップがたくさん存在する国で、事実は把握しにくいが噂は常に真実に近いこともあり、それらから事件が実際にあったことを想像するに至る。私は過去の政治暴力との対話を掲げた博物館の設置計画に参加する機会に恵まれたことで、その時、どのようにして事実を表現すれば良いのかを考え、人々に語りかけて疑問や意見を出してもらった。そして、やっと一体何が起こったのかが分かった。 1976年10月6日、タイ政府は、タンマサート大学(Thammasat University)での前独裁者の帰国に対する平和的デモ抗議に際し、参加した多くの市民や学生に発砲した。政府の統計によると、全部で46人が死亡し、167人が負傷、3000人以上の学生が逮捕された。そして1978年に特赦が通過すると、関わったすべての人だけでなく、加害者側の警察、辺境警察、準軍事部隊及び右翼団体までが釈放された。2019年7月すなわち事件の43年後、私たちは10月6日博物館の設置計画を発起し、過去と現在の政治暴力に縁のある物を使って社会と政治の学習空間を作ることにした。展示会、シンポジウム、映画やその他形式を問わず、交流を通じてタイの司法における不正及び根づいている有罪不問の文化に挑戦していけるように、人々にも疑問を持ってもらい、声を上げてくれることを奨励していく。これこそが私達の博物館で追求する目標である。 二十数年間を経て、私たちはなぜこの事件を討論し、深く調査することができないのかがやっと分かった。タイは長期にわたって軍政府の統治下にあり、軍政府が国家の安全を守ってきたが、その有罪不問の文化と司法行政機関の不正行為の下で、タイ政府は国民の記憶をコントロールしている。過去の政治暴力は敏感な話題であり、議論することはタブーとみなされ、一部の人達は前進する為には過去を忘れるしかないと考えている。私達が過去を忘れずに理解しようとする場合、これらの状況を乗り越える必要がある。 しかしながら、つい最近の2014年の政変では、タイ国民の多くが軍政府に対する見方を変えた。特に若者たちは、政治暴力事件の政府の責任について疑問を抱き、議論をし始めた。公開討論の中で、1976年10月6日の事件も取り上げられた。 私たちの第一回展示会「目撃者」(Prakash/Payan)は、2019年10月5日と6日に開催された。展示品は3点だけだ:。1976年10月6日に銃撃され、亡くなった学生の履いていたジーパン、そして銃弾の穴がある拡声器と赤いドアである。そのドアの上に2体の死体が吊られていたのだ。私たちは簡単な説明を付けてこの3点を展示した。その時の暴力の真の目撃者だ。会場に入ると、この3点が来場者に真実を語りかけ、何が起こったかを明らかにしてくれる。 会場には多くの人が訪れて歩き回っていたのを覚えている。なぜこれほど多くの人がこの3点だけの展示を見に来たのだろうか。見たことがないからか、真相を知りたいからか、或いは1976年10月6日に血の日曜日事件が起こったのか否かを確かめたいからなのか。それとも、自分と同じ考えを持ち、問題を抱える人達と会ってみたいのだろうか。 第二回の展示会「吊り下げ」(Kwean)は、2020年10月1日から10日まで開催された。この時は、AR(拡張現実)技術を使って来場者に語りかけた。1976年10月6日の朝に焦点を当てたのは、その時、少なくとも5人が王宮前広場(サナム・ルアン)の周りの木に吊り下げられていたからだ。展示会は大虐殺の場所を会場とし、AR技術で事件当時に撮影された写真を映し出して、死後釣り上げられたか或いは射殺された様子を見ることができるようにした。 タイ政府は、国民にここでの所業を忘れさせ、また、責任を負う必要はないとしている。 彼らに挑戦する最も簡単な方法は、事件の証拠品を使って、彼らがやってきたことを人々の前に再現してみせることだ。私たちの展示は、大虐殺の現場で直接加害者と受難者に焦点を当て、ここで国家犯罪とも言える規模の暴力事件が起こったことを示した。この展示会の来場者は、まさに過去の暴力の証人となった。 来場者のうち特に青少年は、1976年10月6日の事件についてよく知っていることに、私は気づいた。彼らの知識はウェブ上の「10月6日の記録」や、インターネットでの出版物から得たものだ。彼らが展示会に来たのは、より深く理解するためでもあるが、スタッフや他の来場者と交流するためでもあった。また、今の社会の流れも人々に真相の追求を求める傾向がある。このような角度から、私は博物館がより広く平和的に文化を広め、未来に再び暴行が起こらないように予防することができると見ている。 10月6日博物館計画は、今もまだ進行中である。建てられるまでの道のりは、まだ遠い。ただしこの計画を進める過程においても、博物館に似た機能を果たしていくことができる。例えば、より多くのものを収集して展示会やワークショップ、シンポジウムなどを行うのだ。私たちも引き続き以下のことを推し進め、歩みを止めない。 (1) 問いかけ・・何を知っているか知らないか、資料、証拠、情報はどこにあるのか、どういう人が事件に関わったのか、誰が利害関係者か。 (2) 異なる分野から情報、証言、記憶などの資料を収集する・・加害者、受難者、目撃者及びその他の証拠品 (3) 情報、証言、記録などの資料と来場者とを結びつける。 (4) 正義のための博物館とデジタルアーカイブの設置に向けてより一層努力する。  

人権の諸論
2022-05-23

作者紹介 アンディ・アハディアン (Andi Achdian)は、インドネシア国立大学社会と政治科学学院の社会学科助教で、またオマー・ムニール財団の執行長である。 ムニール人権博物館について ムニール人権博物館は、オマー・ムニール財団によって2013年に東ジャワ省バトゥ市に建てられた。ここが人権擁護活動家ムニール氏の生まれ育った場所であることにちなみ、当初は「オマー・ムニール(ムニールの家)」と呼ばれていた。この博物館の設立によってインドネシアの庶民、特に青年に人権教育が促進され、平和を愛し、人権を尊重し、寛容と平等を原則とした人材の育成が進められることになった。 前書き 1998年5月スハルト大統領の掲げた新秩序政権が崩壊し、彼は30年以上掌握した地位を退いた。副大統領のハビビ氏が後を継ぎ、インドネシアの政局を民主的な方向に発展するように力強く促していた。新秩序の解体とともにインドネシアでは、雨季の後の竹の子のように芽生えた多数の政党による新しい時代が、近代における民主化移行の基礎となっていった。しかし、旧政権の基盤はいまだに消えておらず、現在の政治においても重く存在し続けている。 その内の一つに、現代インドネシア史では軍の成果を強調していることが挙げられる。特に陸軍は、1965年にインドネシアを共産党の脅威から解放する重要な勢力であった。1970年まで政権を全面的に握っていた様子は、その後このような歴史的記録として広く伝わり、共産主義運動の鎮圧の成功に留まらず、オランダに対抗して独立を勝ち取った主な功労者は軍であることを強調している。  独立運動家スカルノ氏、ハッタ氏、スジャリル氏らが果たした役割はだんだんと薄くなり、独立戦争中に活躍した軍の英雄と実績がそれに代わった。歴史家キャサリン・マクレゴーは、二十世紀の近代インドネシア史の研究において、それを「制服を着た人々の歴史」と的確に表現した。新秩序の時代に、政府が如何に軍の役割を宣伝していたかがわかる。政権の統治者は進歩的で解放的な政治を進めただけでなく、博物館をも利用して権威主義的統治者の反動的な誤った歴史的意識を粉飾しているのだ。裏での操作はすべて、学者であり軍事歴史家のヌグロホ・ノトスサント氏によるもので、彼は後の新秩序時代には教育部長となり、率先してインドネシア各都市に博物館と記念碑を建設し、人々に軍の果たした重要な役割を忘れないようにと指導し、この歴史的物語を支えた。  忘れることへの抵抗 新秩序政権の下で、博物館は単に「芸術、文化、歴史或いは科学的価値のある文物」(オックスフォード辞書)を収蔵する場所という従来の定義を超えて、政権の歴史的な役割を正当化する権力の道具にもなった。1998年の改革から間もなく、真相を解明すべく努力し始めた人がいる。2000年の初めにインドネシア独立史の研究者が提唱した説が論争の焦点になった。アスビ.ワマン.アダム氏は、「歴史の修正」を提案した主要人物の一人だった(Adam,2004)。軍隊の役割を強調する際に、インドネシア各地で共産党員と共産党員と見做された数十万の人々が殺害されたことが、1965年の公式に記録された。しかしながら、この新しい波は、学術界の論述という範囲に限られている。新秩序政府の公式見解は、依然として小学生と中学生の歴史の教科書と映画、特に今迄保存されてきた新秩序政府建設の博物館と記念碑を主流としている。 このほかにも人権活動家と民主運動家が、1988年インドネシアで経済と政治の危機が起生じた時に何が起こったかを人々に忘れさせないように取り組んでいる。 2014年12月10日、トリサクティ大学の社会運動家と学者は国際人権デーの記念活動に合わせて、1998年5月12日の事件の記念碑の除幕式を行った。この記念碑の色は黒で、セラミック製、高さは3メートルある。学園内の学生抗争期間中に安全維持部隊に銃殺された4名の学生を追悼するものだ。 その時、女性に対する暴力に反対する全国委員会(Komnas Perempuan)が碑文を作成し、暴力を受けた中国系女性の事件を伝えた。ボランティア達は中国系の女性への性暴力が存在することを各メディアに訴え、改革の初期には論争が起こった。政府は連合調査チーム(TPGF)を組織し、この問題の関する事実を調査したが、チームはそのような大きな事件があったという「証拠」は見当たらないと、事件があったことを正式に否認した。政府の解答に対して、華僑の若いボランティアで事件の被害者でもあるイタ.マルタディナタさんは、アメリカ国会に証言する計画を立てたが、アメリカへ出発する前に殺害されたことが分かった。中国系女性への性暴力事件は忘れられていったが、1998年5月の碑文が証となって、人々に思い出させてくれる。 またその頃、インドネシアで最も西にあるナングロ・アチェ・ダルサラーム州では、幾つかのNGOが驚異的な一歩を踏み出し、2011年にアチェ人権博物館を創立した。博物館の規模は小さいが、これらの組織はティカルバンダン ・コミュニティ(Tikar Pandan Community)のオフィスの庭に掲示板を立てた。内容は、シンパンKK A(Simpang KKA)抗争の中で住民が射殺され、衝突の中で失踪した人々と、兵隊が拷問を加えた場所「ルモグドン」について伝えるものだ。ここには、アチェの解放運動に参加していると疑われた人々が拘束されていた。シンプルな博物館だが、その使命は広く重大である、その目標にはこうある。 暗黒な処は、必ず小さな光が印となって示してくれると信じている。だから私たちは記憶の聖域を築いた。私達、生きて死んだアチェの男女は、レイプされ、虐殺され、烤問され、抹殺され、生死を超えて声を上げる。同じ過ちを繰り返すな!Aceh bek le lagee njan!アチェの過ちを繰り返すな! 一言で言うと、インドネシアの政治改革は、政府とは別に新しく歴史の事実を記すため、人権活動家及び民主活動家を支持する扉を開いたのだ。彼らは「忘れることへの抵抗」というスローガンを打ち出して、過去の人権侵害の加害者が依然として自由の身であるという、インドネシアの有罪不問文化に反応している。博物館と記念碑が発動した「忘れてはならない」という抵抗運動を通し、最終的にはこれらの犯罪に対する政府の怠慢に率先して対抗する一つの行動となった。 オマー・ムニール(ムニールの家) 博物館がどうすれば社会運動のホームグランドとなりうるかについては、東ジャワ省マランバトゥ市にあるムニール人権博物館が証明している。私自身、オマー・ムニール財団のメンバーとして、見解を簡略的に述べよう。 まずインドネシアの重大な人権侵害事件からだが、インドネシアの有名な人権擁護活動家ムニール・ビン・タリブ氏(Munir Said Talib,1965-2004)は、2004年9月7日にオランダへ留学する途中で殺害された。インドネシア民主化の扉を開ける改革を行なったほか、ムニール氏の死は多くのインドネシア人への警鐘を鳴らしたのである。人々に、旧政権の負の遺産は、依然として人々の生活を大きく左右すると告げている。彼の事件の裁判は、ただ実行犯が法律で処罰を受けただけであり、肝心の事件に関わったと見られる軍の高級幹部と情報官僚は、依然として法の外で悠々としている。ムニールの事件で、有罪不問の現象が再び主流となった。  2013年、私がインドネシア警察博物館を創立したばかりの頃に、ムニ­ール氏の未亡人スシワティ(Sucieati)さんが私に連絡してきた。夫とインドネシアの人権問題に奮闘している人のために、博物館を作りたいというのだ。私はムニール氏をよく知っている。インドネシア法務研究所では、彼のもとで働いていた。スシワティさんの提案は、1980年代の国立アメリカ・インディアン博物館(National Museum of the American Indian)の創立や民権運動(Kyle Message,2013 年)が示しているように、博物館が「活動参加」の拠点となることの重要性を強調していて、素晴らしい考えだと私は思った。  問題は資金をどのように捻出するかだ。博物館建設は費用がかかる上、建築士、土木エンジニアと歴史家の参加を必要とする難しい挑戦である。これは、スシワティさんが東ジャワ省バトゥ市にある自分とムニール氏の家を、博物館の用地として提供することで解決した。庭と家屋を含めて大きさが約400平方メートル未満と小さいけれど、この建物には重要な歴史価値があり、または計画を促進する良い礎となる。 2013年の中頃までにより多くの支持を得ようと、博物館を建ててムニール氏とインドネシアの人権擁護活動家奮闘の歴史を語り伝えるというスシワティさんの考えは、広く反響を呼んだ。若い社会運動家や芸術家、メディアの有名人らが続々と共鳴してくれた。その中にはムニール氏に同情する政治家と政府の役人も含まれていた。例えば、のち宗教部長になったルクマン・ハキム・シャイフディン氏とネットメディアの経営者ダーラン・イスカン氏だ。彼は後に国営企業部の部長となった。この博物館の発展は、最終的にはインドネシアの民主運動のネットワークを拡大した。 この博物館を建設する過程で、ついにインドネシアで人権を訴える新しい道が開かれた。それまで人権と民主化は遠いものだと考えていた人々が、この共同計画に投入して時間と力、資金を提供することで、突然それを身近に感じたのだ。これは社会学者シドニー.タロウ氏の考え(2011)を反映するような、市民社会が共同行動を通して、以前は分離されていた各部分が再び集まるモジュール式集団行動である。この年の末には博物館が完成し、また文字通りムニールの家、オマー・ムニールとして正式に一般公開された。最初はただの夢だったが、やっと現実となった。その後博物館の管理運営のために、博物館の発起人で構成されるオマー・ムニール財団が設立された。 このプロジェクトは、数十年続いてきた政府の保守的な歴史に、正面から挑戦した。博物館は確立された歴史と相反することを体験させてくれるのだ。参観者が博物館に着いた時、彼らを迎えるのは、博物館の建設期間中に彫像家から寄贈されたムニール氏の胸像だ。参観者は次に、新秩序が作られて間もなく設立されたYPHAM (人権援助ファウンデーション)と、インドネシア法律サポート財団 (YLBHI)の一連の流れを見ることができる。YPHAMは積極的に共産主義政治犯とその正義のための運動を保護し、推進する組織で、この事実は政府の軍隊が共産主義運動の粉砕に成功したという公式の姿に真っ向から異議を唱えた。 ここではまた、女性労働者マルシナさんについて知ることができる。彼女は、ストライキを主導したとして軍の尋問を受けた過程で亡くなった。オマー・ムニールに展示されているマルシナさんの話は、インドネシアの発展が労働者の血と汗で成り立っていることを、参観者に思い起こさせる。他にもインドネシアの重要な人権侵害事件、例えばパプア州と東ティモール(現在は独立国家)のように、強制失踪と政治的殺害にもスポットを当てている。そしてここに、ムニール氏の個人的な生涯と彼の人権擁護活動家としての履歴、彼に対する謀殺事件についての展示があるのは言うまでもない。  2013年12月8日正式に開館して以来、オマー・ムニールはさまざまな背景と年齢層の参観者を受け入れてきたが、やはり大学生と若い学生が主である。彼らは学校と大学教育における人権認識の一環だと考えている。5年後、インドネシア人民の生活の中に、重要で普遍的な世界人権規範を浸透させようとして人権団体が活動する場合、ここは効果的な媒体となっているだろう。その時そう省みるのは、とても興味深いことに違いない。 ムニール人権博物館 実際にはオマー・ムニールのような小規模博物館で、保守的な歴史物語を塗り替えるには限界があるのは、認めざるを得ない。2018年、オマー・ムニール管理委員会は、建築、インフラ、プロジェクト及びシステム維持等の面で、政府と提携して発展していくことの重要性を考え始めた。この一歩はとても成功し、政府から博物館の建設援助の承諾を獲得した。経費は東ジャワ省政府が提供し、土地はバトゥ市が提供するというものだ。 さらに、管理委員会は、市民の他の団体とも幅広い協力関係を作り上げた。そこでは三つの大きな活動があった。まずは、人権博物館の重要性について人々の意識を高めるため、インドネシア建築士協会(Indonesian Architects Association,AAI)と協力して、博物館のデザイン・コンペティションを開催した。建築士のアイハマイト・デニ・タルディアナ氏(またApepと称す)の設計は、魅力的で群を抜いており、環境保護とも融和していた。第二に、ジャカルタ芸術学院(Jakarta Arts Institute)と協力して、博物館に展示する作品のコンテストを開催した。第三に、環境保護活動家やジャーナリスト、先住民、障害者、女性活動家との協議会を組織し、博物館が可能な展示とテーマについて検討した。この会議での要点は、のちに博物館の学芸員の育成に重要な課題を生み出した。 ここでは、一階に子供のための特別な設計を施している。子供はここで公共生活における包容と自由と平等などの重要な価値観を認知することができる。二階には、インドネシアの人権史の展示がある。インドネシアの市民団体が提出した重要な人権侵害事件、環境保護、先住民、女性及び報道の自由などの問題を取り上げている。最上階には、ムニール氏についての展示がある。彼が生涯進めてきた仕事、例えば強制失踪者のための活動は最後の展示室にあり、参観者にインドネシアの人権問題を考えさせる。 政府との共同作業の過程で、特に人権問題では、展示の独立性について幾つかの疑問が生じたことは、否定できない。将来の人権博物館は、公正かつ公平に、インドネシア史上の重要な人権侵害事件に直面することが出来るだろうか。  それでも、この過程では確実にいくつかの調整と変化が行われた。まずは博物館の名前を「ムニール人権博物館」に変更したことだ。但し、これは博物館と政府の見解が合意に達したしたことを意味するものではない。これまで博物館が展示してきた人権擁護活動家の生涯という特定のテーマを超えて、より広汎的にインドネシアの人権問題をとらえたいという願いを表している。展示の独立性という点では、幸いなことに、インドネシアの政治情勢は開かれた余地をまだ保っている。 未来には最悪の状況が出現するかもしれない。しかし、今回の経験で明らかになったのは、博物館や史跡が、すでに改革期の人権活動家と民主運動の重要な活動拠点となっていることだ。これが、インドネシアの若い世代に人権の重要性を理解してもらう効果的な方法かどうか、それは、時が経てば分かることだ。  

2022-03-30

作者紹介:Tracy Puklowski トレーシー・プクロウスキー(Tracy Puklowski)女史は、オーストラリアのアリススプリングスに在住し、この国で初めて創立された国家先住民族美術館の発展を担っている。それ以前は、タスマニア州ロンセストン市のクリエイティブアート・カルチャーサービス部のチーフを担当し、オーストラリア最大級の地域文化機構であるクイーンビクトリア美術館&アートギャラリー(QVMAG)の館長を務めた経歴がある。 オーストラリアに来る前は、ニュージーランドでGLAM業界(美術館・図書館・資料館・博物館)に携わり、数々の管理職を務め、のちにオーストラリアに移住した。ゲッティズ・ミュージアム・リーダーシップ研究所(Getty’s Museum Leadership Institute)の卒業生である。 博物館紹介: アリススプリングス(先住民はムバーントゥワと呼ぶ)に位置するオーストラリア先住民美術館は、いずれランドマークとなるだろう。オーストラリアの中心部にあるこの新しい空間には、世界で一番歴史の長い文化であるオーストラリア先住民文化を展示し、アートを通して先住民の暮らしぶりを全世界に伝えている。 美術館は、オーストラリアが真実を語る旅において重役を担う。そして運営管理と作業のために先住民を大量採用する方針である。ここがオーストラリア先住民の先導車となり、彼らは世界に向けて自分たちの歩みを発信することにより、主体性を持って自分の意志でどう語るかを決めることができる。 博物館のディスクールと実務において人権意識がどれほど重要なのかが世界的に認識されている時に、2019年に国際人権博物館連盟アジア太平洋支部の設置は、ひとつのマイルストーンとなった。地域にもっと関心を寄せようと設置されたこの支部は、埋もれていた声を伝え、地域ならではの人権問題を扱う重要な拠点として機能する。私は国際人権博物館連盟との長い付き合いを振り返り、人権問題への取り組みを検討しつつ、どうして外堀を埋めてから核心に迫るというやり方がすべての人にとって最善なのかについて、改めて考えを巡らせた。 2010年に国際人権博物館連盟が創立し、私は光栄なことに初代委員会の一人として選ばれた。連盟が理想的な時期に立ち上げられたことは、実に人々を奮い立たせた。博物館界で社会正義が注目されつつあるが、国際的な連携を通じて取り組むのはこれが初めてのことだ。 喜ばしい反面、少々心配もあった。私が勤めるニュージーランド国立博物館(Museum of New Zealand Te Papa Tongarewa。略してテ・パパ)を代表し、我々は「人権博物館」だと胸を張って言えるだろうか。そもそも人権博物館とはどういう存在なのか。私の不注意でこの博物館を偽物にしないようにしたいと思ったものだ。 しかし、テ・パパの歴史や価値を顧みると、人権博物館には必ずしも明確な使命を持つ必要がないという結論が出た。テ・パパは尊重し合う豊かな社会づくりに尽力してきたし、複雑な問題の解決にも取り組んできた。それだけで十分にそう名乗っていいと納得した。 2015年に国際人権博物館連盟会議の議長に就任したとき、私はこう書いた。 「社会正義、人権、広い意味でのアクセス権はテ・パパに伴っているものではなく、必要かどうかを選択してもいいのかもしれない。それらは受け継いでいくコア・バリュー、マオリ語でいうファカパパ(whakapapa)なのである。1992年に可決されたニュージーランド国立博物館法は、斬新な道を切り開く力を持つこの博物館の固い基盤となった。バイカルチャー方針=二文化主義を採用することが役員会で決まった以上、博物館としてはどんな領域においてもバイカルチャーを表現しなければならない。 それだけでなく、テ・パパは“人々の精神を変え、考え方を変え、生き方を変える”というミッションを掲げた。だから不安を抱えながら一筋縄ではいかないテーマと向き合わなければならない。本気で来館者や民族、スタッフにまで今までにない経験をもたらしたいなら、スタンスを固める必要がある。 国際人権博物館連盟のホームページで書いたように、人権博物館としては、従来の博物館にある考え方や仕事内容に挑戦する覚悟を決めなければならない。従って 、私はテ・パパが人権博物館だと考えて、9月に我々の代表が来訪することを楽しみにしている」。[1] 興味深いのは、その文章では人権問題は内容として必要ないと思う博物館があることを示唆したことだ。そのような博物館には、人権的な視点から自身を見直すように説得する必要があると当時は思ったのだ。或いは人権を推進するためには正当で明白な理由が必要なのかもしれない。2010年の私がそうであったように。 同文章においてはまた、博物館が置かれている運営環境が“激しく”変動していることを指摘した。それは、ニュージーランドの文化面や政治面において起こった変化を指す。その時は、これから数年間に世の中は激しく変貌するとは誰も予想つかなかった。そのような“出来事”は世界中に影響を与え、パラダイムシフトを引き起こした。その結果を全人類がともに背負い、一か八かの決心で対応しなければならない。 「21世紀の複雑な容貌とそこに存在する博物館の持つ責任と覚悟、そして未来への挑戦とビジョンを適切に映し出す」ことの実現は、今の博物館にとって無理があると感じられたので、2019年に国際博物館会議(International Council of Museums。略してICOM)の場で、新たな博物館のあり方を築き上げようと計画が立てられた[2]。当惑する人は多く、続いて論争が激しくなり、言語や価値観の違いがイデオロギーの対立にエスカレートしてしまったので、多くの参加者は怒りを感じた。2022年に行われるプラハ大会では、この議題について改めて話し合う予定だが、この2年間に世界中で起こった様々な出来事により、博物館業界の結束が高まることを願うばかりである。 そうでなければならない。なぜかというと、世界中の出来事も来場者も利害関係者も、博物館界が正しい定義について結論を出すのをじっと待ってはいないのだ。近年、世間から要求された変革や挑戦は美術館の門前にとどまらず、ショールームをめぐり、書庫を点検し、我々に圧力をかけてくる。 世界人権宣言 第27条その1 すべて人は、自由に社会の文化生活に参加し、芸術を鑑賞し、及び科学の進歩とその恩恵とにあずかる権利を有する。 コロナ禍で当たり前の生活は一変し、いまだに深刻な状況が続く。博物館や美術館は“ピボット”= 路線変更という柔軟な対応にとどまらず、オンラインレッスン、お試し体験、外とつながることに力を入れ、移動制限を突破し、博物館空間や観客の動きを管理しようとしている。残念ながら、コロナで余儀なく閉館した博物館もある。コロナはあらゆる人に平等に影響を与え、誰もその衝撃から逃れることはできない。一方で、不平等に貧困層や社会で立場の弱い人たちの問題を深刻化させた。 つまり、今まで資源を獲得するために精一杯努力して来た小さな博物館が永遠に閉館した可能性がある。このような博物館とは、その親しいコミュニティの代わりに、歴史と伝統を語り継いできた場所である。 この状況において、コミュニティのために、その記憶の保存を手伝い、世間に語り継ぐことこそが我々博物館の役割だということを再認識した。我々は引き続きアクセス権を邪魔するものを排除し、コミュニティを支配するのではなく味方でいるべきなのだ。社会や個人の仲間として協力し、後世のためにこの非常時を記録しておく。この世界を巻き込む出来事が収まったなら、コミュニティを立て直すことや癒すことに手を差し伸べるのは、博物館にとっての挑戦であり、それは光栄なことでもある。 芸術に治癒力があることは新しい発見ではない。傷ついた人々にとって、博物館は安全で必要な場所である。博物館には人々を集め、歴史の傷を記録し反省の機会を与えることができる。これも別に新しい考えではないが、今回はもっと深く考えなければならない。地域的なものは世界的なものとなり、その逆もまた然りなのだ。 世界人権宣言 第3条 すべての人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する。 世界人権宣言 第25条その1 すべて人は、衣食住、医療及び必要な社会的施設等により、自己及び家族の健康及び福祉に十分な生活水準を保持する権利並びに失業、疾病、心身障害、配偶者の死亡、老齢その他不可抗力による生活不能の場合は、保障を受ける権利を有する。 ほかにも、気候変動は人々の生活と人権においても重大な脅威であり、食料安全、住居、生命など様々な面で衝撃を与えている。気候変動に関して小さな島嶼国家の責任は他国と比べればはるかに少ないが、その衝撃に耐える力は一番弱い。これがアジア太平洋地域で起こっている深刻な問題である。 気候変動に対する意識の強化や対応を促すことに対し、世界中の博物館は責務を担わなければならない。科学者が必死に科学的事実を守ろうとする“ポスト真実”の世界で、博物館は証拠の番人という役割を更に強化していく必要がある。私がオーストラリア・タスマニア州にあるクイーンビクトリア美術館&アートギャラリー(QVMAG)の館長を務めたとき、我が科学者チームは温暖化の影響で、動物(昆虫)たちの生息範囲が南へ拡大することを発見した。この証拠に加え、当局による気候危機が迫っているという発表のおかげで、博物館はすんなりと気候変動をコアコンセプトの一つとして取り入れることができた。[3] しかし、収蔵品に基づく知識や証拠だけで足りないので、どういう行動をとるかが重要である。2020年のはじめ、ロンドン・ホーニマン博物館と庭園(Horniman Museum and Gardens)は、世間に深く影響を及ぼす気候変動宣言を発表した。宣言では、博物館とその来場者の間に共通認識を醸成することや、行動を変えることを促すだけでなく、博物館が今までの伝統や活動を見直すことを呼びかけるというものだ。 気候変動の問題に対し、博物館としては「有する資源をいかにしてより良く活用するか」ということについて深く考えなければならない。持続可能な建築を建て始めるのか、スポンサーに我々の価値観は認めてもらえるのか、最近起こったことでは、博物館が石油会社からの出資を受けることが妥当かどうかをめぐる論争が役員会の中でなく、公開的な場合で行われていた。 それから、環境移民のニーズにどう対処するか。それは決して遠い未来の話ではない。もうすでに起きているのである。2020年の資料によると、住む場所を失った3070万人の中で、気候変動がもたらした災害によるものは98%以上を占めている。[4]例えば、数千人のマーシャル諸島島民はアメリカで一応住居を確保できたものの、そこでいかに自分の伝統文化を引き継いでいくのかが、これから向き合わなければならない課題である。 世界人権宣言 第7条 すべての人は、法の下において平等であり、また、いかなる差別もなしに法の平等な保護を受ける権利を有する。すべての人は、この宣言に違反するいかなる差別に対しても、また、そのような差別をそそのかすいかなる行為に対しても、平等な保護を受ける権利を有する。 非白人が警官によって暴行されたことで、「黒人の命も同じ命」というスローガンを合言葉に、世界中は再び大いに盛り上がっている。この運動において、最初に注目されたのは警察の暴行だが、世界中に広がるにつれ、制度的差別や植民地主義が残した痕跡などの問題を巻き込んだ。その中で、博物館がしてきたことも世間に見直された。 博物館の動向に是非が問われるのは初めてのことではない。例としては、1980年代初期に大英博物館がパルテノン神殿の彫刻の帰還を正式的に要求されることにまで遡る。1990年に、アメリカのモーリス・バーガー(Maurice Berger)という芸術史学者が「美術館は人種差別主義なのか」という疑問を呈したこともある。しかし、それらの疑問が今のように時代精神と共鳴して高まることはなかった。 様々な団体が「この場所を非植民地化」(Decolonize This Place)や「イギリスの石油会社の資本を残すべきか残さぬべきか」(BP or not BP)というパフォーマンスじみた言動を通じ、博物館の運営に介入した。スポンサー関係者をはじめ、文物の返還、収蔵品の取得方法、先住民のエージェンシーやスタッフの仕事環境まで、博物館はさまざまな面で注目を浴びている。ヴァイス・メディア(Vice Media)が制作した『ありのままのヒストリーツアー』(The Unfiltered History Tour)という番組の中では、大英博物館が所蔵する“正当性に疑いがある文物”について深掘りがなされた[5]。ここ数年、いくつもの文化施設は、元スタッフによって不公平な仕事環境や制度的人種差別に関する事実が暴かれ、批判を浴びた。皮肉なことに、カナダ人権博物館もその中の一つである。 ソースコミュニティ(source communities)=文物の出処となる地域社会は、貴重な文物を返還するよう要求することにより、その存在感も大きくなってきた。例えば2018年、イースター島のラパ・ヌイ族(Rapa Nui)という先住民族の団体は、大英博物館にホアハカナナイア(Hoa Hakananai'a)というモアイ像の返還を要求した。ラパ・ヌイ族にとって、それは民族のツプナ(tupuna)、つまり先祖だからという理由だ。番組『ありのままのヒストリーツアー』の植民地時代に盗まれたホアハカナナイアという特集で、先住民で島知事のタリタ・ラプ(Talita Rapu)氏は「今のラパ・ヌイは体があったとしても、魂が奪われた状態にある。魂のない我が一族は、生きていても死と同然だ」と率直に言った[6]。先住民のアーカイブを研究するものならみんな知っていることだが、文物の価値はその民族、家族やその子孫あってのものであり、その人たちから剥奪するわけにはいかない。これは当たり前のことではないだろうか。その伝統文化の所有者が「魂を体に戻す」ことが最善の結果だと主張したら、博物館に一体どんな言い訳ができるというのだろうか。博物館として、積極的に植民地主義から脱却しない限り、事態を悪化させる責任から逃れることはできない。 先住民族の権利に関する国際連合宣言 第3条 先住民族は、自己決定の権利を有する。 この権利に基づき、先住民族は、自らの政治的地位を自由に決定し、ならびにその経済的、社会的および文化的発展を自由に追求する。 我們可自由決定自己的政治地位,謀求自身的經濟、社會和文化發展。 オーストラリア各州ではそれなりに人権を守る対応・措置に取り組んでいるが、人権を保障する連邦レベルの法律は、まだできていない。この国に暮らしている私はこの文章を書いていて、自分が興味深い立場に置かれたことに気づいた。現状ではまだまだ改善が望まれる中、人権を守る責任やそれを意味付ける役割は、確実に中央から個人や民間組織に戻されている。私はオーストラリア国立先住民美術館という新しい文化のエンティティを立ち上げようとしている。その美術館はノーザンテリトリーのアリススプリングスという、美しくコントラストが強い場所に落ち着く。その場所ならではという文化や芸術があり、世代間のディスアドバンテージやトラウマがある。 オーストラリア先住民[7]の文化は、この地球で現存する文化の中で一番古いものだと見られている。その視覚的文化は生命力に溢れ、時間がたっても衰えることがない。先住民の芸術媒体は砂や岩からボードやキャンパスに移り変わるとともに、オーストラリアの芸術史に永遠に残り、世界中の人々を魅了した。それによって、芸術家及びそのコミュニティに社会的、経済的、文化的、精神的に良い影響をもたらした。先住民族の生き方や歴史を新しい観客に紹介することにより、文化的な結び付きをさらに深めることができた。私から見ると、今住んでいるノーザンテリトリー(北部準州)そのものが世界で一番広く、生命力に満ちた美術館である。この地に存在する創作力は無視できないぐらいとてつもなく巨大なものだ。 ノーザンテリトリーは、オーストラリアにおいて先住民やトレス海峡諸島民の人口が一番多い地域であるが、45%近くの先住民家庭の生活水準が貧困線を下回る[8]。そして若い人の自殺率は全国平均の3倍で[9]、ノーザンテリトリー刑務所に収まる囚人の85%近くは先住民である[10]。 そこで、我々が注目すべき問題は、国立先住民美術館のような美術館(ほかの美術館に代わってもいい)が、人権のために戦うべきかどうかでなく、いかに戦うかを考えるべきだということだ。大切な価値を創造するには、博物館界のあり方を考え直し、作り直していかなければならない。国立先住民美術館として、先住民族のポリシーを守ったうえで、管理職からスタッフまで先住民族を多数採用することを通し、美術館が先住民族のメガホンとなり、その行為において主体性を強化することが大切だ。そして権利と責任を共に担い、世界に真実を知らせることに尽力する。オーストラリアが過去の傷を癒すことや、全国的な和解を求めるなら、これ以外に方法はない。小さな美術館・博物館が各自で頑張ったとしても限界があると言える。 ここに書いてある世界中の出来事や人権問題は一人ひとりに密接に関わる。どこで起こったか、スケールがどれくらいか、何のためにかとは関係なく、誰も目を背けることができない。大半の文化施設は長い間来場者のために運営されてきた。来場者のためにという思いのおかげで、お互いの交流が促進され、内容的に更なるクローズアップを図るなど、いろいろ巨大なメリットをもたらした。しかしながら、今、新しい一歩を踏み出す時が来た。我々は人道精神に学び、まず、すべての人に人権や尊厳を持つ権利があることを、受け入れるところから始めよう。

2022-03-30

作者紹介:袁緒文(エミリー・エン) 国立台湾博物館教育推進研究アシスタント。主に台湾社会における国際移民の受容性や博物館のアクセシビリティについて研究している。2015年には博物館に移民解説員を設置するという役目を担い、中国語を含め東南アジア諸言語・英語・多言語ツアーの導入に取り組み、移民コミュニティとの関係を築くことに尽力してきた。2016年以降は、博物館が東南アジアからの移住者コミュニティと親密な関係を築くことに繋がっていった。互いに協力することで、東南アジア文化をテーマにした芸術祭、展覧会、教育イベントなどを何度も開催し、東南アジアに関する収蔵品の紹介を続けている。 博物館紹介: 国立台湾博物館(以下「台博」)は1908年に設置された、台湾で最も歴史のある博物館である。1915年に、新しく現在の位置に建設された。一世紀余りにわたり台北駅前に存在し続ける台博は、その豊かな収蔵品と特殊な地理的位置から、台北市のランドマーク的な建築だと言える。人類学、地球科学、動物学、植物学といった分野の専門的探求による収蔵品は、文化の多様性に溢れている。この十年間は、新たに文化活動のバリアフリーと多方面での交流をテーマに加え、国際移動に関する最新国際社会情勢に応えた。テーマ展示や教育活動、出版や異文化連携計画を通し、様々な文化背景を持つ人々に奉仕することや社会教育の目標を達成している。 前書き 台湾国家人権博物館(以下「NHRM))は、台湾の民主化において忘れてはならない白色テロの歴史を記録に残す重要な記念碑的施設である。同時に人権侵害の歴史を伝える教育センターでもあり、人権問題を取り上げて人権リテラシーを促進し、人権の普遍的価値を提唱して台湾の民主主義と人権を守っている。 国際博物館会議(ICOM)の組織する国際人権博物館連盟(FIHRM)及びその関連機構、NGO、専門家の理解と支持により、台湾のNHRMに国際人権博物館連盟アジア太平洋支部(FIHRM-AP)が設置されることになった。 NHRMとFIHRM-APの新しいミッションは、台湾における人権問題を国際移動による人権問題の一つとして捉えることである。両者は今まで、交流ネットワークを構築して国際人権問題に取り組んできた。政府、NPO、博物館、移住者コミュニティの架け橋として、お互いの交流を促進している。今回のフォーラムにおいて、博物館従事者は初めてNPOと対面式で議論を交わし、ともに議題について考え、台湾における移住者の人権問題と向き合うことができた。 フォーラム及びワークショップの主旨と背景 移住先の国に融合する目的を帯びた国際移動ブームによる様々な問題は、現代の博物館が向き合わなければならない挑戦だと言える。本フォーラムは、博物館がいかに異文化交流により移住者を歓迎する態度を示し、社会的偏見、差別、疎外などの状況を克服するかに重点を置いている。そして移住者人権に関するデータベースの設立、史跡や歴史的文物や個人的コレクション、そこに秘められた物語の保存についても議論が交わされた。3日間にわたるワークショップで、台湾、オーストラリア、インド、アメリカ、バングラデシュ、チベット(西蔵)、南スーダンの講演者は、それぞれが加速する国際移動による人権問題について意見や経験をシェアし合った。そして理論的にも実務的にも経験的にも、博物館学に基づく知識に溢れた時間を共有した。 10月20日のテーマ:移住者のための博物館ネットワークと社会正義 セッション1:博物館、移住(労働)者コミュニティ及び大衆間の交流プログラムデザイン オーストラリアのビクトリア国立美術館に属する移民博物館(Immigration Museum)館長のロヒーニ・カパダス(Rohini Kappadath)氏は、博物館が人権擁護を実践する基本方針として、以下の項目を提案した。 ●        博物館の新しい役割を認識 ●        時代遅れの博物館運営方針の見直し ●        「協力関係を築きたい移住者コミュニティの声をちゃんと聞いたか」を自分に問いかけ続ける カパダス氏自身も長年移民博物館に務めているので、その経験から多彩な取り組み方について語った。 続いての講演者は、台湾の袁緒文と李映萱である。二人はそれぞれ国立台湾博物館と高雄市労働者博物館の近年の運営方針について語った。 1990年代、台湾は東南アジア労働者移住期第一波を迎えた。2021年には、台湾における東南アジア労働者の人口は70万人を超え、移住者は30万人を超えた。移住労働者のおかげで、建設、遠洋漁業、製造業、介護などのニーズが満たされた。台湾に移住した東南アジア人は婚姻に基づく配偶者が多く、労働力人口や世帯構成の一部となっている。にもかかわらず、台湾では東南アジア移住者への差別が常にある。慣習や言葉の違い、固定観念、偏見などから東南アジアからの配偶者や移住労働者は常に誤解され、不公平な扱いを受けている。 台北にある国立台湾博物館(以下「台博」)は台湾で最初に建てられた博物館だが、2015年より「多言語ツアー」を導入した。台博は東南アジア移住者を募って解説員を養成し、台湾在住の同胞に言葉の隔たりなく母国語で博物館を見学できるサービスを提供した(図1)。そして移住労働者コミュニティに声を掛け、「多元文化節」を共同で開催した(図2)。しかもイベントの段取りと内容はコミュニティに計画してもらった。このように、移住者は台博で母国の文化の良さを自由に表現し、アピールすることができるのだ。